瑞巌寺124世・南天棒(なんてんぼう)こと中原鄧州(なかはらとうじゅう)禅師は、肥前国唐津(現佐賀県唐津市)の出身です。母の死を契機に平戸・雄香寺で出家、全国を行脚し、24名の師に参じて修行を重ね、久留米・梅林寺、羅山元磨禅師の法を嗣ぎました。別号の「南天棒」は、鄧州禅師が座右に置いた樹齢200年の南天の棒に由来するもので、この棒を用いて多くの人物を導いたことから、南天棒の通称が有名になったようです。
豪快でありながら非常に綿密な性格であった南天棒はその能力を買われ、妙心寺の特命により松島・瑞巌寺、西宮・海清寺といった由緒寺院の住職を歴任しながら各地の禅会を指導し、沢山の弟子を育てられました。
瑞巌寺にあっては、日々の記録を付けて収支を明確にし、明治維新で困窮した財政の立て直しに手腕を振るいました。寺伝来の什物目録を作成した上で、修理の必要な文化財を修復しただけでなく、途絶えていた年中行事を復活させ、寺の歴史を纏めて拝観客のために説明文を制作しており、今日の瑞巌寺の基礎を築いたと言っても過言ではありません。
本年は正当の100年諱にあたることから企画展を開催し、事績を顕彰する運びとなりました。これからも瑞巌寺の文化財を守り後世に伝えていくため、南天棒の丁寧な仕事ぶりと、多くの庇護者との関わりについて、今一度振り返りたいと思います。
(1)明治の豪僧・南天棒 | |||
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作品名称 | 筆者等 | 数量 | 時代 |
鄧州全忠像 | 寛州宗潤筆・鄧州全忠賛 | 1幅 | 大正12年(1923) |
南天棒戯画像 | 山岡鉄舟筆・牧宗宗寿ほか賛 | 1幅 | 明治時代 |
南天棒図 | 鄧州全忠筆 | 1幅 | 明治~大正時代 |
払子図自画賛 | 鄧州全忠筆 | 1幅 | 明治~大正時代 |
鄧州全忠位牌(パネル) | |||
鄧州全忠袈裟衣類 | 明治26年(1893) | ||
南天棒・竹篦・払子・如意(鄧州全忠受用具) | 4点 | 明治27年(1894)施入 | |
(2)瑞巌寺住職として | |||
作品名称 | 筆者等 | 数量 | 時代 |
達磨図画賛 | 大庭学僊筆・鄧州全忠賛 | 1幅 | 明治27年(1894) |
出山釈迦図画賛 | 天野方壺筆・鄧州全忠賛 | 1幅 | 明治時代 |
三千仏名号・印仏 | 鄧州全忠筆 | 3幅 | 明治26年(1893) |
いろは歌松嶋志満盡し | 鄧州全忠筆 | 1面 | 明治29年(1896) |
当山住持歴代過去牒 | 鄧州全忠筆 | 1冊 | 明治27年(1894) |
陸前国塩釜松島真景全図 | 鄧州全忠著・蜂屋十馬印刷 | 1面 | 明治26年(1893) |
旧暦年中行事・草稿 | 鄧州全忠筆 | 2冊 | 明治25年(1892) |
寺籍調査表 | 太陽東潮、鄧州全忠筆 | 1冊 | 明治19年(1886) |
松島案内瑞巌寺略伝 | 永井智嶺著・河東田寛林印刷 | 1冊 | 明治25年(1892) |
(3)交友関係 | |||
作品名称 | 筆者等 | 数量 | 時代 |
山岡鉄舟居士病気回復祈祷回向 | 鄧州全忠筆 | 1幅 | 明治21年(1888) |
金瓶斎碑拓影 | 原字 匡道慧潭、山岡鉄舟、高橋泥舟ほか筆 | 1幅 | 原碑:明治26年(1893) |
富嶽図自画賛 | 高橋泥舟筆 | 1幅 | 明治28年(1895) |
一行書「坐看雲起時」 | 勝海舟筆 | 1幅 | 明治21年(1888) |
乃木大将追悼偈 | 鄧州全忠筆 | 2幅 | 大正10年(1921) |
一行書「五雲香舎」 | 山岡鉄舟筆 | 1面 | 明治12年(1879) |
扁額「葉山神社」 | 原字 山岡鉄舟筆 | 1面 | |
鄧州全忠宛書簡 | 高橋泥舟筆 | 1通 | 明治28年(1895) |
(4)南天棒が遺したもの | |||
作品名称 | 筆者等 | 数量 | 時代 |
托鉢図自画賛 | 鄧州全忠筆 | 1幅 | 大正12年(1923) |
一行書「千里万里一條鉄」 | 鄧州全忠筆 | 1幅 | 大正時代 |
一行書「寒松一色千年別」 | 鄧州全忠筆 | 1幅 | 大正8年(1919) |
雪達磨図自画賛 | 鄧州全忠筆 | 1幅 | 大正8年(1919) |
半身達磨図自画賛 | 鄧州全忠筆 | 1幅 | 大正10年(1921) |
南天棒図(松島退山偈) | 鄧州全忠筆 | 1面 | 大正2年(1913) |
群鳥蒔絵天目台 | 1点 | 江戸時代作 | |
染付竹に雀筆筒 | 1点 | ||
染付松竹梅文香炉(湖東焼) | 1点 | ||
子育観音 | 鄧州全忠作 | 1体 | 明治29年(1896) |
鄧州全忠(1839~1925)は肥前国東松浦郡(現佐賀県唐津市)出身。室号・白崖窟、俗姓・塩田のち中原氏。平戸雄香寺で出家したのち、久留米梅林寺の羅山に嗣法。本山の特命により当山124世住職となる。のち大梅寺・傑山寺を経て西宮海清寺住職。
行脚中に手に入れた南天の棒を常に携えていたため、「南天棒」の渾名で知られるようになった。山岡鉄舟や乃木希典との親交も深く、僧俗問わず多くの人が鄧州の下に集った。
中央の墨書は南天棒を表し、右に「道得南天棒道不得南天(いい得るも南天棒、いい得ざるも南天)」とある。この語は中国唐時代の禅僧徳山宣鑑の「道得三十棒道不得三十棒」をもじったもので、鄧州が南天棒図を書く時は、この語を添えることが多かった。
明治天皇の大喪儀が行われた日に殉死した乃木希典に対し、交友のあった鄧州が弔辞の餞別として作り捧げたもの。
鄧州と乃木は瑞巌寺に来る前から交流があり、乃木は仙台に本営を置く第二師団長に任ぜられると、毎週日曜日には瑞巌寺に来て鄧州の下に参禅した。