松島は、時代によって様々な顔を覗かせます。初めは、景観の素晴らしさから歌枕の地として、見仏上人の来松、臨済宗・円福寺の創建以降は聖地・霊場として、天橋立・厳島とともに「日本三景」の一つに数えられ、松尾芭蕉の『おくのほそ道』により全国に紹介されてからは観光の地として世間に認識され、現在に至ります。
その中心となるのが「雄島」と呼ばれる小さな島です。 都人は「浄土の景」と言われる雄島からの景色に思いを馳せ、想像力の限りを尽くして歌を詠みました。また、「浄土への入口」とも言われる雄島には、故人の冥福や自身の極楽往生を願い、火葬骨を納める骨塔や、板碑という供養碑が無数に建てられています。さらに、芭蕉によって絶景の地であることが広く周知された後は、多くの文人墨客の手により歌碑・句碑・詩碑等の石碑が建立されました。雄島の歴史は、先人達の想いの上に成り立っているとも言えるでしょう。
本展覧会では、数多の人を魅了し続ける雄島に関する資料をご紹介いたします。極楽浄土に見立てられた風景を前に、人々は何を祈り、願い、綴ったのでしょうか。観覧後は雄島へと足を運び、古人が焦がれた霊地としての面影を、肌で感じていただければ幸甚に存じます。
※表は横にスクロールします
はじめに 美しい景色あり | |||
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作品名称 | 筆者名 | 数量 | 時代、他 |
松島図 | 菊田伊洲 | 1幅 | 江戸時代後期 |
松島図 | 大槻磐溪 | 1幅 | 江戸時代後期 |
詠松島五絶拓影 | 古梁紹岷 | 1幅 | 江戸時代後期 |
陸奥国塩竈松島図 | 佐久間洞巌 | 1帖 | 享保13年(1728)序 |
千載和歌集 | 1冊 | 江戸時代 | |
見仏上人 雄島に住まう | |||
作品名称 | 筆者名 | 数量 | 時代、他 |
伝・見仏上人磨崖仏(パネル) | 1枚 | ||
撰集抄 | 1冊 | 慶安3年(1650) | |
松島山円福禅寺住持次第 | 陽岩宗純 | 1帖 | 慶長4年(1599) |
見仏上人の再来 頼賢 | |||
作品名称 | 筆者名 | 数量 | 時代、他 |
頼賢碑拓影 | 原字:一山一寧 | 1幅 | 原碑:徳治2年(1307) 国重文 |
覚満禅師墓碑拓影 | 1幅 | ||
北条政子舎利寄進状 | 1幅 | 鎌倉時代 | |
水晶製五輪塔舎利容器・舎利一粒 | 北条政子寄進 | 1基 | 鎌倉時代 |
極楽浄土への願い 結縁 | |||
作品名称 | 筆者名 | 数量 | 時代、他 |
板碑 | 6基 | ||
正安元年銘板碑拓影 | 1幅 | 原碑:正安元年(1299) | |
干時辛酉銘板碑拓影 | 1幅 | 原碑:元亨元年(1321) | |
貞和五年銘結衆碑拓影 | 1幅 | 原碑:貞和5年(1349) | |
雄島と瑞巌寺 | |||
作品名称 | 筆者名 | 数量 | 時代、他 |
慶長七年銘供養碑拓影 | 原字:陽岩宗純 | 1幅 | 原碑:慶長7年(1602) |
松吟庵薬師堂記碑拓影 | 原字:天嶺性空 | 1幅 | 原碑:元文元年(1736) |
法語「示素漢」 | 雲居希膺 | 1幅 | 江戸時代前期 |
扁額「醫國殿」 | 原字:天嶺性空 | 1面 | 享保21年・元文元年(1736) |
丈六薬師如来像残欠(左手) | 1 | 江戸時代 | |
千貫島 | 一関恵美 | 風炉先屏風 | 令和5年(2023) |
芭蕉 松島の月先心にかかりて | |||
作品名称 | 筆者名 | 数量 | 時代、他 |
芭蕉翁画賛 | 高橋容所/南峰 | 1幅 | 江戸時代末~明治初 |
芭蕉翁句碑拓影 | 1幅 | 原碑:延享4年(1747) | |
曽良句碑拓影 | 1幅 | 原碑:文化5年(1808) | |
雪中菴蓼太句碑拓影 | 1幅 | 原碑:明和5年(1768) | |
奥州松島塩竈全図 | 斑目東雄 | 1面 | 江戸時代後期 |
奥州松島塩竈図 | 玄亭 | 1面 | 江戸時代後期 |
松島五大堂御嶌句碑集 | 大原呑舟 | 1面 | 文化14年(1817) |
松島双子島 | 川瀬巴水 | 1面 | 昭和8年(1933) |
おくのほそ道 | 松尾芭蕉 | 1冊 | 寛政元年(1789)再版本 |
雄島にまつわる伝説 | |||
作品名称 | 筆者名 | 数量 | 時代、他 |
火鈴 | 1口 | 伝・元時代 | |
松島図誌(火鈴の頁) | 桜田周輔 | 1冊 | 文政4年(1821) |
雄島周辺海底表面採集板碑について | |||
作品名称 | 筆者名 | 数量 | 時代、他 |
板碑 | 14基 | ||
明徳二年銘板碑拓影 | 1幅 | 原碑:所在不明 | |
パネル展示『奥州名所圖會』大場雄渕著 (宮城県図書館蔵) | |||
雄島の景/雄島表の真景/覚満禅師像/蓮生法師、見仏上人を訪ねる/松島念仏踊(雲居念仏)/西行戻しの松 |
長治元年(1104)、伯耆国(現鳥取県西部)から松島にやって来た見仏上人は、雄島に妙覚庵を建て、12年間法華経を唱え続け神通力を得たとされます。やがてその名声は朝廷まで届き、元永2年(1119)、鳥羽天皇より仏像・宝物を贈られたと伝えられています。
これを機に、雄島は高徳の見仏上人が住まう島として広く知られるようになり、霊場松島の中心地となっていきました。
13世紀中頃、瑞巌寺の前身である禅宗寺院・円福寺が鎌倉幕府により建立され、多くの宗教者が霊場松島を訪れるようになりました。中でも円福寺6世・空巌慧禅師により妙覚庵の庵主に任命された頼賢は、以後、島から出ることなく、22年間ひたすら法華経を唱え続け、「見仏上人の再来」と称されました。
雄島の南端に建つ頼賢碑(国重要文化財)は、頼賢の行状を記し、その徳の高さを後世に伝えるため弟子達によって建てられました。
13世紀の終わり頃、板碑という石製の供養塔が建てられるようになります。現在雄島内には70基ほどの板碑がありますが、島周辺の海底から3,000点以上の板碑が表面採集されており、往時は多数の碑が林立していたと考えられます。
板碑には故人を供養するだけではなく、生前に自分自身の供養をした板碑もあります。
前者を追善供養碑、後者を逆修供養碑といいます。
把不住軒は瑞巌寺99世・雲居希膺禅師が雄島の景観と静寂を愛し、公務の合間を縫って坐禅三昧の時を過ごした場所です。把不住軒の名称は、雲居禅師の室号「把不住」(捉えようがない、捉えられないの意)に由来します。
雲居禅師が伊達政宗公正室・陽徳院愛姫の要請に応えて作成した道歌108首からなる『往生要歌』は「雲居念仏」ともいわれ、庶民にも広まりました。松島では「松島念仏踊り」と称し、盂蘭盆の折、念仏を唱いながら踊り歩き、道中で喜捨として受けた米銭を雄島に納めて「親族不離の亡霊に供養」したとされます。
墨跡「素漢に示す」は、雲居禅師が坐禅中に、救済を求めてあらわれた素漢(男の幽霊)に与えた法語です。
※「雲居念仏」昭和57年採録
元禄2年(1689)旧暦5月9日、松尾芭蕉が弟子の曽良を伴い松島を訪れました。『おくのほそ道』には旅の目的の一つであった、海に映る月に心を奪われた様子が描写されています。
『おくのほそ道』の発表以降、芭蕉の足跡を慕った俳人達が松島を訪れて句を詠み、沢山の句碑が建てられました。
観光目的で松島を訪れる人も増え、霊場としての性格を帯びながらも、次第に観光地化していきます。土産物として様々な松島名所図が作られ、和歌や俳句を添えたものもあります。