瑞巌寺の沿革

瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。

9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺が、13世紀中頃に鎌倉幕府執権北条時頼公によって改宗、改称させられた、建長寺派の臨済宗円福寺がその前身であると伝わっています。従来は天台宗延福寺が破却され、新たに臨済宗円福寺が創建されたと考えられていました。

しかし近年の発掘調査や文献の再考などにより13世紀中頃に臨済宗円福寺が現瑞巌寺境内域に新たに創建され、天台宗寺院と共に存在していたと考えられるようになりました。臨済宗円福寺は室町時代に入ると五山十刹に次ぐ諸山の地位を得て大いに繁栄しました。逆に天台宗延福寺は次第に衰退していきましたが、少なくとも慶長9年(1604)に伊達政宗公が再建に着手した五大堂は天台宗徒が管理運営していたようです。その五大堂も寛永14年(1637)頃に瑞巌寺が管理することとなり、統合されていきます。

五大堂の再建がなった慶長9年、伊達政宗公は荒廃していた臨済宗円福寺の再建に着手します。用材を紀州熊野に求め、名工130名を近畿地方から招聘し、5年の大工事を経て慶長14年(1609)に完了しました。山号を松島青龍山、寺号を瑞巌円福禅寺と改め、再興13年後の元和8年(1622)には障壁画も完成しています。

伊達家の菩提寺となった瑞巌寺は手厚い庇護を受け、領内随一の規模と格式を誇り、その末寺は110余りに及びました。

 

しかし、明治維新を迎え王政復古の政策は廃仏毀釈を惹起し、さらに伊達家の版籍奉還による寺領の撤廃が瑞巌寺を始め松島の諸寺院を直撃し、零落・廃絶・焼亡等の憂き目を見ることになりました。瑞巌寺はそれでも時の住持太陽東潮の努力により、ようやく維持されていたのですが、明治9年(1876)、天皇の行在所となり、内帑金千円が下賜され、復興の契機となりました。
現存する本堂・御成玄関、庫裡・回廊は国宝に、御成門・中門・太鼓塀は国の重要文化財に指定されております。

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年表

瑞巌寺に残る文書『天台記(てんだいき)』は、天長5年(828)慈覚大師(じかくだいし)により天台宗延福寺(えんぷくじ)が建立されたと伝えています。正元(しょうげん)元年(1259)頃、執権北条時頼は天台宗徒を追放し、代わって法身禅師(ほっしんぜんじ)を開山に迎え、臨済宗円福寺(えんぷくじ)を建立しました。

円福寺は、瑞巌寺に残る雲板や発掘調査結果などから、14世紀初頭頃に伽藍(がらん)全体が整ったと思われますが、残念ながら伽藍配置や規模は不明です。わずかに「一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)」(14世紀写本)だけが、二重の回廊をもつ姿を伝えています。当初、臨済宗建長寺派に属し、鎌倉幕府御祈祷所として栄え、室町時代には五山十刹(ござんじっさつ)制度の諸山から十刹に昇りその高位を保ちました。戦国時代に入ると次第に衰退し、天正6年(1578)頃、臨済宗妙心寺派になりました。

江戸時代初期、名刹円福寺の衰退を憂いた伊達政宗は、新たに伽藍を造営し、寺名を瑞巌寺と改め、その復興を行いました。

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時代 寺院名 松島周辺の歴史
平安時代 延福寺 801 坂上田村麻呂
堂宇を建立し多聞天像を安置する
828 慈覚大師円仁が延福寺を創建
同師が毘沙門堂に五大明王を安置し五大堂となる
1104 見仏上人雄島妙覚庵を建てる
1248 北条時頼
松島に来ると伝える
1259 円福寺建立
法身禅師開祖となる
1280 一遍上人
松島に来ると伝える
鎌倉時代 1307 雄島に頼賢の碑建立
円福寺 1326 円福寺10世明極
雲版を鋳造する
1578 この頃円福寺
妙心寺派となる
1604 伊達政宗公 五大堂再建す
伊達政宗公 円福寺復興に着手
1608 瑞巌寺梵鐘鋳造する
円福寺を瑞巌寺に改称
1609 瑞巌寺上棟式
1622 瑞巌寺襖絵完成
南北朝 1637 五大堂
瑞巌寺の管理下となる
1689 松尾芭蕉
瑞巌寺に詣でる
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